平成仮面ライダーを探る。 共存編・その1 ~俺とおまえは、戦うことでしか~
先月でGyaOの『仮面ライダークウガ』配信が終了。『クウガ』を通してちゃんと見たのはもう4回目くらいなのですが、案外細かいポイントを忘れているもので、新しい発見もあり。
どの作品を何回見ても面白いなーと思うあたり、すっかり信者というか訓練されているというか。
さて、『クウガ』から始まる平成仮面ライダーシリーズのひとつのポイントは、
「人間は異形の存在(あるいは、別のイキモノ)と共存できるのか?」
という問いに対するアンサーを探っている点だよなあ、と思っております。
昭和ライダーは改造人間という設定が使えたので、ライダー自体が異形の存在なわけですが。平成ライダーでは必ずしもそうではなくなってきて、異形の存在が主人公の相棒になったりもしており。
ここまでの15年をひとつの流れとして見た時にどういう道筋をたどってきたのかなあ、と常日頃考えているのですが。
個人的に、この観点から平成ライダーを見た時にターニングポイントになるのは『カブト』ではないかなーと。
『電王』から平成ライダーシリーズの作風がぐっと明るめになったのは周知のとおりで、暗さや重さをかつてほど前面に出さなくなった。
『カブト』もギャグ路線がどこまで通用するか探ってる部分があったように見えるんですが、それでも基本的な作風はシリアスから外れてないと思います、『カブト』は。
では、ちょっと初期作品のおさらいから行ってみましょう。
まずは『クウガ』。
「わかりあえるよ。だって人間どうしなんだから」という五代のセリフ。
グロンギについて「価値観の違いは決定的だ」という一条さんのセリフ。
「これ(暴力)でしかやり取りできないなんて悲しすぎる」という五代のセリフ。
ここら辺は確かジャラジとジャーザの回だったと記憶していますが、人間と別のイキモノとの関係性についての『クウガ』の思想は、この辺りに集約されます。
いささか乱暴なまとめ方ですが、「人間どうしならいつか分かり合えるけど、価値観の違う相手との相互理解は困難(というか無理)で、暴力を振るわなければならないこともある」ということになるでしょうか。
これに対し、『アギト』からの白倉ライダーは、『クウガ』のアンサーに対して
「ほんとにクウガが出した答えでいいのか?」
という疑問を提示し、こねくり回していきます。
詳細は割愛つーかまたいずれ書こうと思いますが、『アギト』の芦原さんとか『龍騎』のライダーどうしの戦いとか『ファイズ』のごたごたし続ける人間関係なんかを見ていると、
「共存とか相互理解も不可能ではないけど、痛みは確実に伴うよね……?」
「そもそも人間どうしでさえ相互理解は難しすぎるんだけど、どうする?」
と言ってるように思えます。
で、『アギト』~『ファイズ』辺りの集大成として機能しているのが『剣』。
本作における人間と異形のコンビ、といえばもちろん剣崎と始ですが、この二人は結局そばにいることはできなかった。
離れ離れになることでしか共存できなかった、というのが悲しいところ。
さらにその陰に隠れて、睦月が嶋さん・タイガーアンデッド・ギラファアンデッドあたりといい感じになっていたりします。ただ結局嶋さんとタイガーは睦月を救うためにカードに封印されるわ、クワガタには睦月から持ちかけた共存だか相互理解だかを否定されるわで、
やっぱり「痛み」を伴う、というか、ノーリスクで共存は困難だよ、と言っているようにも見えます。
合間に挟んだ『響鬼』は変化球というか、異形の存在である魔化魍との相互理解は蹴っ飛ばしている感じ。
代わりにあるのが、ジェネレーション間の相互理解、かな?
何組かの鬼の師弟のエピソードを積み上げて、世代を越えて繋がっていく思い。それがああいう形で決着したのは割と好感触です。
ちなみに私は『響鬼』後半については容認派寄り。あと、ラストのあのセリフは脚本の方が良かった派です。
細川茂樹は、「子供の手本にはなりうるけど本人が若い連中のことちょっとよくわかってない」感じのヒビキさんを好演していて、アベレージではポイント高いのですが、ラストのセリフを変更した(らしい)という点においては、個人的に印象悪い。
えー、意外に長くなってきたので、何回かに分けます。つづく。