横須哲斗のごった日記

仮面ライダーを中心にまったり語るブログ。アニメ・漫画・小説・ゲーム・映画など諸々。

『仮面ライダー龍騎』を探る。 ~さらば、改造人間~

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前回の「探る。」シリーズはクウガでしたが、アギトすっ飛ばして先に龍騎の話。ブルーレイボックスももうすぐ発売だし。

さて、平成ライダーでも特に放映当時から物議をかもした『龍騎』。13人の能力者が唯一の勝者となるべく殺し合う物語、と聞かされて、仮面ライダーとイコールで結びつけることは難しいでしょう。いわゆる「正義と悪の戦い」とか「勧善懲悪」は要素としては少なめで、本作における正義が欲望や主義主張とほとんど同義なのは周知のとおり。

このような作品ができた裏側には、米国同時多発テロとその後のアメリカの軍事行動があります。以下は白倉プロデューサーの発言。

 

企画段階で「9・11」が起きたんですよ。その後のブッシュ政権の対テロ戦争をふまえて感じたのは、「良い者」が次々と現れる「悪い者」をやっつけて最後は敵の本拠地を叩くというこれまでのヒーロー物語を繰り返していていいのだろうかという疑問でした。何が正義なのか、疑いの目を子どもたちに持ってもらいたいと思ってつくったのが『龍騎』です。(『日本破壊計画』)

2001年のように世間的にも正義とは何かという議論の出ている時代背景において番組も槍玉に上がれば、話題にもなりやすいので、そういう問いかけを多少は扱わなければならない、あるいは考えている振りをしなければいけなかった。(『ユリイカ』対談)

 

ヒーローって何なの? 何のためにいるの? という、根本的な疑問。

同時多発テロのポイントは、一般の市民社会の内側で事態が起こった、ということです。一方でその後の派兵とか戦闘は、市民が暮らす社会の外側で起こっている。

飛行機でビルに突っ込むテロという行為は、市民社会という境界線の明らかな侵犯だった。それに対抗して、各国は軍隊を派遣するわけですが、その軍隊(=ヒーロー)たちの戦いは、マスメディアで逐一報告されるものではあっても、市民社会からは切り離されていました。

この点は『龍騎』でも同様です。警察組織を作中に導入して、市民社会とその侵犯を描いたクウガ・アギトとは違い、『龍騎』にはそういった公的な組織は出てきません。ヒーローたちの戦いは、一貫してミラーワールド――市民社会という境界線の「外側」で行われます。

ここで戦うヒーローたちが、それぞれ別個の正義――換言すれば欲望や思想を持つことで、ミラーワールドそれ自体がライダーたちによる小さな社会として機能する。この小さな社会において、自分なりの正義を主張することは、他者の正義を否定するのみならず、他者の生命を奪うことでもある。

そしてそれゆえに、ヒーローはその存在理由を問われるのです。

この作品では、ライダーたち自体が、ライダーしか存在しない小さな社会を支える構成要素となっている。だから『龍騎』には、従来のヒーローそのものが存在しない。

 

ところがこの世界にもヒーローになろうとする人はいます。主人公である仮面ライダー龍騎・真司と、仮面ライダータイガ・東條。

お人好しで正義感の強い真司は、ライダーどうしの戦いを止めるべく行動。しかし、人々が自分の正義を掲げて争っていること、行動の伴わない説得では争いを止めることはできないという事実に直面して、ひたすら迷ったり悩んだりしています。

東條は「英雄になる」ことを目的とし、ミラーワールドを消滅させて戦いを終わらせるために活動していますが、そのために他のライダーを殺すことに何の躊躇もない。

2人はどちらもヒーローとしては不完全であり、そしてどちらも危険に見舞われた子供の身代わりになって、最終回を迎える前に死亡します。

そうやって、自身の不完全な正義を貫いて死ぬことによって、ようやくヒーローとして昇華されることに成功している。

実際的な行為が「子供を助ける」ことなのは、やはり仮面ライダーは子供にとってのヒーローでなければならない、というメッセージでしょうか。たとえその結果、自身が命を落とすとしても。

 

さて、そんな『龍騎』においてライダーへの変身は、自分なりの「正義」を主張するための道具ないし手段として描かれています。カードデッキを使った変身は、まさに仮面ライダーという存在が道具になったことを示していました。クウガやアギト、いくつかの昭和ライダーは、ヒーローの肉体に何かとんでもないパワーが宿っているという設定が多かったのですが。

『アギト』は、おもちゃ売り上げが『クウガ』の8割程度にとどまっていたそうで、男の子へのアピールが急務とされていたことは間違いないでしょう。改造手術や宇宙人といった無二の変身能力ではなく、道具としての変身という『龍騎』の制度は、カード収集の要素もあって子供たちに受け入れられ、『クウガ』以上の高い売上を記録。

ここから、単にベルトを巻くだけではなく、子どもに受けるギミックを貪欲に取り入れることになっていきます。最近はとにかく出したもん勝ちみたいな状況になってますが、それに比べりゃ当時の売り方はまだおとなしいものだったんだよなあ。

 

本作において、仮面ライダーにおける「変身」はほぼ完全に旧来のものから脱却。のちの作品でもしばらくは個人なりの正義(というか主張)を遂行するためのツールとして取り扱われることになっていきます。

そしてこの道具としての変身は、誰もがその人格だけではなく、肉体的にも変身しうるという可能性の芽になるんです。

平成ライダーの15年をひとつの歴史として見ると、アギトもそういうものに挑戦しようという部分はあったんだけど、決定的に切り替わったのはやっぱり龍騎なんですよね。それがいいか悪いか、というのはまた別の話ですが。